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博士の音色

【博士の音色】悩める天才作曲家の30年

骨がなければピアノも弾けない、骨大事です

 全てのピアノ曲(ソロ)の中で一曲だけ個人的に最も好きなものを挙げるように言われると、迷わずラフマニノフ(Sergei Rachmaninoff)のピアノソナタ第2番(変ロ短調作品36)と答えます。一般にラフマニノフといえばピアノ協奏曲第2番(ハ短調作品18)が映画音楽やフィギュアスケートにも用いられているので特に有名ですが、彼の作曲家として円熟しきった時期に書かれた大作としての最高傑作は、ピアノ協奏曲第3番(ニ短調作品30)とその出版の3年後1913年に書かれ作曲者自身の手で初演されたピアノソナタ第2番でしょう。今回は、後者にまつわるラフマニノフらしいエピソードを紹介したいと思います。

 1897年に自信を持って世に出した交響曲第1番が音楽批評家から予想外の酷評を受け、そのため極度のノイローゼになり数年間作曲不可能な状況に陥った後、ダール博士の催眠療法によって自信を取り戻し、1901年に発表したピアノ協奏曲第2番が喝采をもって聴衆に迎えられ、今も世界中で愛される曲となっている、というのはこの曲の知名度もあってかあまりにも有名なエピソードです。しかし、私にとって本当に興味深いのは、一つの作品の完成度について30年以上も真に満足する事ができず、彼がその生涯を閉じるまで自身では解決しきれなかったピアノソナタ第2番についてです。実はこの曲には3つの異なった演奏譜が存在します(正式に出版されている楽譜は2つですが)。1913年に発表されたoriginal version は、円熟期のラフマニノフの作品に共通する特徴ですが、音符の数が非常に多く、また「ゆらぎ」を特徴とするメランコリックなフレーズが幾重にも重なり繰り返される、人によっては部分的に冗長で無駄がある、もしくは演奏が難しすぎる、と評されかねない30分弱の大作でした。ラフマニノフ自身はこのことをずっと気にしていたらしく、18年後の1931年に120小節もの削除と難解な表現や技巧の部分を自身でわかりやすく書き換えた revised version を同じ作品番号で正式出版しています。約20分弱にまで削り落とされたこの改訂版では、曲の主題や構成等が非常にクリアになり、全3楽章の結びつきがとても強くなって一曲としてのまとまりがよくなったように思える反面、original version でひたひたと伝わってくる陰鬱な感情表現やラフマニノフらしい甘美なメロディーラインが消えてしまっている部分もあり、よくできた別の曲という印象です。現在出回っている楽譜の多くがこの改訂版です(作曲者本人による改訂ですから当然ですが)。もともと original version をレパートリーとしてロシア国内で演奏していたピアニストのホロビッツ(Vladimir Horowitz)は、改訂版出版から10年以上経った1943年に、親交の深かったラフマニノフにoriginal version のよいところを取り入れた再改訂を申し入れていますが、ラフマニノフ自身ではこれはなされる事はなく、ラフマニノフの許可を得たホロビッツが折衷案のような改訂を行い、以後ホロビッツがこの曲を演奏する際には必ずこのホロビッツ版で行われています。譜面の出版はされておらず、プロの音楽家の聴き取りによるoriginal version とrevised version からの各小節の組み合わせの配列は発表されていて、これによると、単に順によいところを羅列しているのではなく、相前後したり2小節だけ出し入れしたりと、とにかく細部にまでくまなく手を入れている事がわかり、ラフマニノフ公認とはいえ、ホロビッツ独自の別の曲の顔を持っています。ラフマニノフがoriginal version を出版した1913年から約30年後にこの世を去るまでひたすら悩み続け、ついぞ決定版として自身を納得させる形にできなかっためずらしい一曲ですが、それだけ、彼自身の思い入れの強い、またオリジナリティーにあふれたすばらしい曲であるとも言えます。

 私が学生時代にピアノの先生にこの曲のレッスンをお願いした際、あまりの無謀さに苦笑いしながら渡してくださった楽譜が、International Music Company (New York City)出版のoriginal versionでした。この譜面出版の解説にあたっている米国のピアニスト、ブラウニング(John Browning)は、自身の演奏活動では1980年代中頃まで revised version を弾いてきたが何か違和感があり、またホロビッツ版を聴くに至って original version への興味が異常にかきたてられ、それまでロシア以外では出回っていなかった original version の楽譜を手に入れ、米国で初めてレコーディングしたようです。それが、DELOS: RACHMANINOFF Sonata 2 他(Piano: John Browning)で、これも楽譜といっしょにピアノの先生から紹介され、以来私のバイブルのひとつとなっているCDです。この演奏ではoriginal version の冗長さなど微塵も感じさせず、圧倒的なロマンチシズムと感情のゆらぎ、ラフマニノフ独特の鐘を象徴するオクターブの連続や、変幻自在な時間軸の進行とメランコリックな旋律の流れなどが余すところなく表現されており、おそらくこれは演奏者のブラウニング自身がrevised version からoriginal versionへと作曲者とは逆行して行き着いた作品への愛情がこもっているからなのだと思います。

DELOS「RACHMANINOFF Sonata 2(Piano: John Browning)」
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一方、贅肉を削ぎ落とした revised version の真髄をよく表現しているのが、Grammophon: RACHMANINOV・KLAVIERSONATEN NOS.1&2(Piano: Alexis Weissenberg)です。Revised version が目指している到達点がoriginal version と異なる事を非常によく認識できる演奏です。

Grammophon「Rachmaninov: Piano Sonatas No. 1 & No. 2(Piano: Alexis Weissenberg)」
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また、ホロビッツ版はもちろんホロビッツ自身の演奏にまさるものはなく、RCA GOLD SEAL: HOROWITZ Plays RACHMANINOFF が秀逸です。1980年のライブ録音でホロビッツは1904年生まれですから、非常に高齢での演奏ということになるはずですが、そんなことは微塵も感じさせない圧倒的な演奏です。このCDにはピアノ協奏曲第3番も収録されており、このフリッツ・ライナー指揮でのRCAビクター交響楽団との競演も1951年モノクロ録音ですが、信じられない程の完成度です。

RCA GOLD SEAL「Horowitz plays Rachmaninoff」
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 クラシック音楽の楽しみ方の一つとして、同じ曲を異なる演奏家がそれぞれの解釈をするのを感じ取る、というのがありますが、同じ曲を作曲者自身が異なる解釈をすることで、その世界が広がって行ったとても興味深い例だと思います。私が、この曲に様々な形で触れて強く感じる事は、結局ラフマニノフが本当に作りたかったのは original version そのものだったのではないかということです。長年悩み続けても、結局理屈ではなく最初のインスピレーションや直感が一番自分の素直な表現であるように私自身は思っていますし、ブラウニングの演奏を改めて聴いて、その意を強くした次第です。医学研究も同じだと信じています。

2016年3月11日 骨がなければピアノも弾けない、骨大事です