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ソクラテスの書棚

【ソクラテスの書棚】カズオ・イシグロ作「忘れられた巨人」

SIDURI
カズオ・イシグロ「忘れられた巨人」
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 その国は、深い健忘の霧に包まれていた。白く霞む霧の中で、人々は過去を忘れ、ただ淡々と日常の生活を送っていた。
 ブリテン島の片隅に佇む小さな集落。そこに暮らす老いたブリトン人夫婦のアクセルとベアトリスは、住人たちに疎外されながらも静かに日々を過ごしていた。蝋燭のない夜の闇の中で互いの寝息に耳を傾け、柔らかな朝日に照らされた互いの寝顔に安心感を覚える。二人で重ねた過去は忘却の底に沈んでいるが、彼らには一つのささやかな夢があった。顔も思い出せない愛しい息子に再会したい。ある日、遠く離れた集落に住むという息子を訪ねるため、老夫婦は旅路につく。そこから本作の物語が展開する。
 旅の中で出会う様々な人々。ある婦人は、夫が孤島から帰ってこないと嘆き悲しんでいる。ある村の長老は、村民達が任務を忘れて乱暴を働く様に憤りを露わにする。かつてアーサー王に仕えた老騎士は、古の闘いが終わってもなお焦土の中を彷徨っている。鬼に襲われ傷を負った少年は、人々から忌み嫌われて住み慣れた村を出る。東の沼沢地からやって来た勇敢なサクソン人の戦士は、少年を守るために剣を携え老夫婦と旅路を共にする。
 老夫婦の旅が進むうちに、霧の正体が明らかになっていく。そして霧が晴れ、全ての記憶が明るみになった時、忘れられた巨人が目を覚ますことになる…。

 淡々と綴られる本作を読みながら、私自身も深い霧に包まれているような不思議な感覚を味わっていた。老夫婦は霧の中で一体何を探しているのだろう。

「取り戻せるさ、お姫様。全部取り戻せる。それに、おまえへの思いは、私の心のなかにちゃんとある。何を思い出そうと、何を忘れようと、それだけはいつもちゃんとある。おまえもそうじゃないのかい、お姫様」
「ええ、アクセル。でもね、わたしたちがいま心に感じていることって、この雨粒のようなものじゃないかしら。空は晴れて、雨はもうやんでいる。なのに雨粒はまだ落ちてくる。それはさっきの雨で木の葉がまだ濡れているからでしょう? 記憶がなくなったら、わたしたちの愛も干上がって消えていくんじゃないかしら」

(「忘れられた巨人」より)

 そんな老夫婦の会話を読みながら、私自身も忘れている過去があるのではないかと知らず自問していた。そして一方で、忘れた記憶を思い出す必要があるのだろうかとも考えていた。忘れられた記憶の中には、愛しいものもあるだろう。でももしかしたら、とても苦しく哀しく、憎しみに満ちたものもあるかもしれない。霧はそれを優しく包み込み、今を幸せに生きるために、「忘却」というベールで覆い隠しているのかもしれない。

 カズオ・イシグロ氏の著書には、全作を通して、灰色の雲に覆われた英国の退廃的な空気が漂っている。長崎で生まれ、5歳の時に英国に渡った著者。英語で執筆された本書の原著「The Buried Giant」は、土屋政雄氏によって「忘れられた巨人」として日本語訳された。翻訳でありながら、抑制のきいた文章の奥底にカズオ・イシグロ氏本人の言い知れない迫力や底知れない人生観が渦巻いている。本作は著者の初めてのファンタジー作品と言われているが、現代に通じる人間の葛藤を描いたヒューマン・ドラマなのだと思う。
 独りで過ごす静かな週末に、ゆっくりと午後の紅茶を飲みながら、本書を片手に深い霧の中に足を踏み入れてみてはいかがだろうか。