【ソクラテスの書棚】近藤史恵作「タルト・タタンの夢」「ヴァン・ショーをあなたに」
例えば、長く手こずっていた申請書をやっと提出して、ほっと一息つきながら職場を後にした時。身体も心も疲れきっているけれど、そのまま真っ直ぐ家に帰る気がしない。木枯らしが吹く夜の街をあてもなく歩いていると、道の片隅に佇む一軒の店が不意に目に飛び込んでくる。木製の扉からこぼれ落ちる暖かな灯り。道端に置かれた黒板には、手書きの文字でこう書かれている。
<本日のお薦めメニュー>
・グリーンペッパーと鴨のパテ
・トリュフオムレツ
・ロニョン・ド・ヴォーの網脂包み焼き
・マルセイユのブイヤベース
・タルト・タタン
果たして、この誘惑に抗える人はいるだろうか。吸い込まれるように扉を開けると、「いらっしゃいませ」という声と共に若いギャルソンの笑顔が出迎えてくれた。カウンター席が7つ、テーブルが5つという小さな店内で、短髪のソムリエールが微笑みとともに小さな会釈を返してくる。カウンター席に腰を下ろすと、強ばっていた腰がじんわりほぐれていくのがわかった。
「お疲れのご様子ですね」カウンター越しに、料理人らしい背の高い男性が上品な声音でそう話しかけてきた。「外はだいぶ寒くなってきましたし、まずはヴァン・ショーでもいかがですか?」。数刻後に現れたガラス製のカップの中には熱いワインがなみなみと注がれ、シナモンとオレンジの華やかな香りが鼻孔に忍び込んできた。一口飲んだ瞬間に、思わずため息がこぼれる。オープンキッチンの奥から、シェフとおぼしき髭面の男性の無愛想な一瞥が送られた。
本作の舞台である「ビストロ・パ・マル」は、そんな場所だった。
近藤史恵氏の著書「タルト・タタンの夢」「ヴァン・ショーをあなたに」は、下町の商店街の片隅で営業する小さなフレンチ・レストラン「ビストロ・パ・マル」で繰り広げられる出来事を、オムニバス形式で綴った連作の短編小説集である。「パ・マル」の従業員は、ギャルソンの高築智行、ソムリエールの金子ゆき、料理人の志村洋二、そして料理長の三船忍。フランスの片田舎で修行したという三船シェフの絶品料理に惹かれて、毎晩多くの人が来店する。
舞台女優と婚約したばかりの西田さんは、ある日体調を崩してパ・マルにやって来た。女性編集者の御木本さんは「駝鳥のコンフィのカスレが食べたい」と、突然奇妙な注文をする。いつもブイヤベースばかりを食べる新城さんの目的とは何なのか…。疲れたり、傷ついたり、悩んだりしているお客様の声に耳を傾け、三船シェフは美味しい料理でお腹を満たし、見事な推理力と謎解きで彼らの心を満たしていく。
本作を最初に読んだ時、決して特別な作品ではないと感じた。書籍のカテゴリはミステリであるが、本作の中では人が殺されたり犯罪が生じたりといった過激なことが起こるわけではない。日常でよく出会うちょっとした人間同士のトラブルを、温かい文体で軽妙に書き上げている。でも、疲れて帰る電車の中で、お風呂に浸かりながら、あるいは寝る前のひと時に本書を開くと、まるでヴァン・ショーを飲んだように心が温かくなってくる。
最近、「グルメ小説」や「グルメ漫画」というジャンルが注目を集めている。私も安倍夜郎氏の「深夜食堂」という漫画が好きなのだが、マスターの作る手料理がたまらなく懐かしくて、店に集う人々の生き様が一生懸命で切なくて、ページをめくる度に満たされていくのがわかる。美味しい料理は心身を温め、人を素直にさせるのかもしれない。私たちはそんな作品を読みながら、登場人物の目線になって、自分が抱えた疲れや悩みをリセットしたいと思っているのかもしれない。
さあ、今日もあの店で、心と身体を癒やしましょうか。