日本骨代謝学会

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骨代謝研究と私

徳島大学 藤井節郎記念医科学センター 松本 俊夫

The Chemical Dynamics of Bone Mineral

はじめに
 この原稿を中島友紀編集長から依頼され、正直何を書いたら良いか判らずずーっと引き延ばしていたところ、とにかく書くようにとの連絡を頂きました。そこで私のこれまでの軌跡を辿ることで、若い研究者・医師などの皆様に何か役に立つことがあればと思い、私の大学入学から現在までの軌跡を思うがままに書かせて頂きました。

学生時代
 私は県立岡山大安寺高校を卒業した後、1968年(昭和43年)4月に東京大学理科III類に入学しました。折しも学生運動が学内を席巻し、入学して僅か1か月余りで安田講堂に立て籠もった学生の排除の為に機動隊が導入されたのをきっかけに、全学ストライキに突入しました。その後2年近くに亘りストライキが継続したため、私達の学年は1974年(昭和49年)9月に半年遅れで卒業となりました。そしてこの年秋の医師国家試験を最後に、以後の国家試験は年1回のみとなりました。こうしてそれなりに身の危険も感じつつ波瀾万丈の中にも自由奔放な学生生活を過ごした後、卒業と同時に臨床研修が始まり、それまでと打って変わって医師としての厳しい修練に曝されることとなりました。

研修医時代
 私共の時代には内科志望者は半年間ずつ2年間に亘り最大4教室を回り、その中で声を掛けて頂いたりで気に入った教室に入局し、市中病院などで一般内科の修行を積んだ上で大学の教室に戻り、どこかの研究室に所属して専門教育を受けることとなっていました。私は2番目に廻った第1内科の臨床カンファで難解な内分泌疾患を持つ症例の呈示とその診断・治療などの討議を行いました。その数日後に、当時第1内科で東研究室を主宰しながら、筑波大学助教授として東大と筑波を毎日の様に往復していた尾形悦郎先生に呼び出されました。先生の研究室を恐る恐るノックしたところ、「おおこの間の研修医か、まあ良いから入れ」と言われるままに先生の向かいに座ると、「お前内分泌に興味があるんだろう。良く調べていたな。その気があるならうちの研究室に来い。最高の教育を授けてやる」と、私が何も言う前からどんどん話しを進められた上で、「じゃこれから食べに行こう。お前の先輩達も居るから一緒に連れて行く」とまあ何と強引な先生だろうと唖然としているうちに食事と共にどんどん飲まされ、更に飲み直しに行った後には「じゃまあ、うちでこいつらと一緒に頑張れや」と言った具合でいつのまにか研究室に入ることになっていました。そして3期目の研修を他の内科で行っている間にもしばしば声をかけて頂いては食事に連れて行って頂き、どっぷりと第1内科東研に浸かることとなりました。

 研修4期目にはもう大学内を廻っても仕方ないからと、尾形先生が1〜2週に1回外来診療に行かれていた茨城県友部町の茨城県立中央病院で内科一般の研鑽を約1年間に亘り行いました。この病院で経験した多数の救急患者や重症内科患者への対応と共に、尾形先生の外来に付かせて頂いて体験した内分泌疾患の診療は、その後にも医師として大きな財産となりました。

第1内科医員時代
 第1内科に入局すると、東研究室は尾形先生が筑波大学に出られていたこともあり、研究費も乏しく医局の中ではまさに弱小研究室でした。それもあって、尾形先生の留学先の師匠でもあったHoward Rasmussen先生がPennsylvania大学からYale大学に移籍し尾形先生にポスドクで来たい奴は居ないかと打診して来た折に、それまで病棟で内分泌疾患の診療をしていて何の研究の手ほどきも受けていない私に、留学しないかとのお話しをされました。私は自分で判断出来ないことは信頼して指導を受けている先生が良いと言われる通りにすれば良いと思っていたので、何の躊躇もなく受けました。

 尾形先生は、このまま留学しても何も出来ずうつ病になって戻って来るだけだから基礎トレーニングを受けてから行けと言われ、1977年(昭和52年)夏に病棟担当を外れ、DeLuca研究室でビタミンD代謝物を次々に同定し活性化過程も明らかにして帰国され、昭和大学歯学部生化学教室教授に就任されたばかりの須田立雄先生に指導を頼まれました。こうして約10か月間、須田研究室でビタミンD代謝物の解析や動物実験などの手ほどきを受け、カルシトニンやプロラクチンが腎でのビタミンD活性化に及ぼす作用の研究などに携わりました。

米国留学
 上記の如く、大した研究経験もないままに1978年(昭和53年)6月よりYale大学のHoward Rasmussen先生の教室の門を叩くこととなりました。それまで何の研究実績も持たず、外国に出たのは大学卒業直前にヨーロッパ旅行に行っただけだったこともあり不安でいっぱいの留学でした。哲学者の様なしかめ面をして190 cm以上もあるRasmussen先生のオフィスに挨拶に行った当初はさすがに緊張しましたが、「私の所で何か結果を出すよう求めている訳ではない、君は私の為に研究をするために来たのでもなく、自分の力で考え自分でテーマの重要度を測り自分で選んだテーマを自分で解決する能力を身に付けられれば良い」と言われた事にいたく感動したのを今でも覚えています。

 米国留学では、RasmussennグループのRoland Baron, Andrew Stewart, Karl Insogna, Arthur Broadusなど多くの優れた研究者からも色々な影響や刺激を受けることが出来ましたし、米国生活をそれなりに満喫することは出来ましたが、決して研究で成功が得られた訳ではありませんでした。逆に、Rasmussen先生が唱えてきた「腸管細胞での活性型ビタミンDによるカルシウム吸収の促進は、遺伝子転写の促進を介する蛋白の誘導によるものではなく、腸管粘膜細胞刷子縁膜リン脂質の変化による輸送蛋白の活性化によるものである」という仮説の証明に莫大なエネルギーを割き、学会発表では学会に来ないRasmussen先生の代わりに叩かれまくるという厳しい体験もさせて頂きました。結果的には、活性型ビタミンDにより腸管細胞でカルシウム輸送蛋白TRPV6の発現が高まることが証明され彼の仮説は消え去っていますが、ビタミンDが細胞膜リン脂質代謝に大きな変化を及ぼすのは事実であり、その生物学的な意義の解明は未だ残された課題とも言えます。

東大第4内科時代
 これらの研究などに携わるうち、Rasmussen先生から永住許可申請 (Green Card取得)をしてAssistant Professorとして残らないかとのお話しを頂き、決して研究で大きな成功を収めている訳でもなくどうせ残っても3年後に厳しい思いをするだけだろうなどと悩んでいたところ、尾形先生より東大第4内科教授に就任したので直ぐ戻ってくるようにとのお手紙を頂きました。Rasmussen先生は、戻っても役職がある訳でもなく無給医局員に過ぎないのに何故こちらのチャンスをみすみす捨てて帰るのだといぶかられました。しかし私は尾形先生が新たに主宰される教室の創造に参加しないかとの誘いに強く惹かれ、1981年末に帰国しました。

 東大第4内科は、本郷のメインキャンパスから離れた目白台の東大分院に設けられた内科で、本郷に在籍する人達の多くは行きたがらない教室でした。東大分院は300床に満たない小さな病院ではありましたが、興味深い症例が数多く入院して来ていました。そして分院で唯一の内科学教室であったため、教室内にほぼ全ての診療科を備え、数少ない教室員が力を合わせてあらゆる領域の疾患をカバーする体制が必要とされていました。これがまさに尾形先生が長年主張されてきた、内科疾患全般の対応能力を備えた上で自分の得意とする領域を持ち、その中から最も専門とする領域を発展させること(八ヶ岳構想)を皆が目標とし実践する基盤となりました。こうして尾形イズムの浸透により、第4内科は最も人気のある内科の一つとなりました。

 私は帰国後、第4内科の第3研究室の運営を任されましたが、ゼロからの出発を期して自分より優れた能力をどこかで持つと思われる人材を積極的に勧誘しました。その甲斐あってか、私の帰国前より在籍していた多久和陽先生(金沢大学教授)に加え、池田恭治(前・国立長寿研部長)、福本誠二(徳島大学藤井節郎記念医科学センター特任教授)、竹内靖博(虎の門病院内分泌部長)、原田俊一(故人・Merck研究所)、岡崎亮(帝京大学教授)、竹田秀(前・東京医科歯科大学教授)、中山耕之介(癌研病院部長)、井上大輔(帝京大学教授)の各先生らの俊英と共に一緒に診療・研究に携われる幸せに浴することが出来ました。私の東大第4内科時代の研究成果は、全て彼らと力を合わせて一緒に努力して来た賜であると思います。

 この間、悪性腫瘍患者に合併する高カルシウム血症惹起因子の同定が大きな課題となっていましたが、その熾烈な同定競争はオーストラリアのJack Martin先生グループのLarry Suvaらが発現クローニングによりPTH関連蛋白(PTHrP)を同定し1987年にScience誌に発表し決着しました。私達はわが国に多い成人T細胞白血病(ATL)に合併する高カルシウム血症もPTH様因子によると考えその同定を試みていましたが、これがPTHrPによることを確認するに留まりました。

 最後の数年間には、東京農業大学に助教授として在籍しておられた加藤茂明先生とも出会うことができ、当時加藤研に出向して頂いていた竹田秀先生を通じてビタミンD受容体欠損マウスの樹立とそれを用いたビタミンDの骨カルシウム代謝における役割の解明という歴史的な仕事にも参画させて頂くと共に、須澤美幸先生(現UC San Francisco研究員)を派遣して頂き数多くの共同研究へと発展させることが出来ました。こうした中で、私は1996年(平成8年)12月より、徳島大学第1内科に移籍することとなりました。

徳島大学第1内科・生体情報内科時代
 徳島大学に移籍する少し前から、尾形先生の後を受けて癌の骨転移の発症機序解明と予防・治療法の確立を目指した厚生省研究班長を務めていましたが、徳島大学第1内科の血液グループは多発性骨髄腫の基礎・臨床研究の実績があることが判りました。そこでこの研究班の活動として骨髄腫骨病変の研究を進めてはどうかと当時助手になったばかりの安倍正博先生に声をかけたところ、喜んでやりたいとの事で積極的に進めることとなりました。また当時城西大学の久米川正好先生の教室から徳島大学歯学部矯正学教室に講師として移籍して来た日浦賢二先生グループも共同で取り組むこととなりました。その後の安倍先生の活躍は目覚ましく、骨髄腫細胞が産生するMIP-1が骨芽細胞に作用しRANKL発現の誘導を介して破骨細胞による骨破壊を促進すること、こうして形成・活性化された破骨細胞が骨髄腫細胞の生育・増殖を促進する因子をも産生すること、この因子がTNFファミリーのBAFF・APRILであること、そしてそのシグナルがTAK-1を介しPim-2キナーゼを活性化しこれが骨髄腫細胞の生育・増殖の維持に関わることなどを次々と明らかにしました。一方、骨髄腫細胞は骨芽細胞による骨形成を抑制すること、これがWntシグナル抑制因子の産生によること、そして未分化骨芽細胞は骨髄腫細胞の増殖を促進する一方で成熟骨芽細胞は骨髄腫細胞の増殖を強力に抑制すること、この骨芽細胞の分化抑制にも骨芽細胞でのPim-2発現の促進が関わることなども明らかにしました。現在、Pim-2阻害薬は新たな骨髄腫治療薬候補として国際製薬企業の手で臨床試験が進んでいます。

 私は東大第4内科時代より骨芽細胞の分化制御機構に興味を持ち、特に老齢化で骨芽細胞での発現が低下するIL-11の発現が骨への力学的負荷により一過性に著明に高まること、IL-11の発現はPTHによっても促進され、両者ともにカルシウムイオンの流入—ERKリン酸化—CREBリン酸化を介するfosB遺伝子の転写促進を介すること、fosB遺伝子産物のうち⊿FosBがJunDと2量体を形成しIL-11遺伝子の転写を促進すること、力学的負荷やPTHは同時にSmad1/5をBMP非依存性にリン酸化し、これらが⊿FosB/ JunDとIL-11遺伝子プロモーター上で複合体を形成しその転写が促進されること、加齢によりJunDのAP-1結合領域への結合能が低下するためIL-11発現が低下すること、グルココルチコイドは⊿FosB発現には影響することなくIL-11発現を用量依存性に抑制すること、そしてIL-11は更にsclerostin, Dkk-1,2などWntシグナル抑制因子の発現抑制を介して骨形成を促進することなどが明らかとなりました。これらの研究には当時徳島大学に在籍していた井上大輔先生と共に現徳島大学医学部保健学科教授・遠藤逸朗先生や現近畿大学農学部准教授・木戸慎介と木戸里佳(現・八尾市立病院糖尿病科部長)の両先生らが大きな役割を果たしました。

 この間、数々の骨粗鬆症治療薬が登場し、その臨床応用を目指して数多くの臨床試験が進められました。そしてラロキシフェン、テリパラチドを始めエルデカルシトール、ミノドロン酸、デノスマブと数々の臨床試験の遂行にも携わることができました。現在もなお、アバロパラチドやロモソズマブなどの臨床試験が進行しています。これらに加え、徳島大学では内分泌学や骨カルシウム代謝学以外にも赤池雅史(徳島大学大学院医療教育学・教授)や粟飯原賢一(糖尿病・代謝疾患治療医学・特任教授)先生など多くの教室員と共に糖尿病や動脈硬化症などの研究を進めることも出来ましたが、2014年3月に定年退任しました。そして現在は安倍正博先生が血液・内分泌代謝内科学分野の教授として教室を更に発展させてくれています。

藤井節郎記念医科学センター時代
 定年退任後も、元徳島大学酵素学研究センター教授・藤井節郎先生の数々の創薬を基にした財団からの寄附により設立された藤井節郎記念医科学センターの運営に携わる傍ら、脂溶性ビタミン研究分野・分子内分泌学研究分野と引き継がれてきた寄附研究部門に加わった福本誠二、沢津橋俊、Maria Tsoumpra、高士祐一先生らと共に、FGF23の活性制御機構の研究に加え、内科学教室時代には出来なかった筋肉を対象としたサルコペニア防止を目指した研究や、皮膚老化や脱毛の防止を目指した研究を、ビタミンD受容体やアンドロゲン受容体の組織特異的欠損動物などを用いて進めています。また、IL-11の骨代謝制御に関わる生理的役割の解明を進めるため、IL-11の全身的および組織特異的欠損マウスを用いた研究も、中国青島大学から留学していた董冰子 (Bingzi Dong) 先生を嗣いだ歯学部の日浅雅博先生の協力などを得て継続しています。

おわりに
 これといった実績を築いた訳でもない私にこの様な執筆依頼を頂き大変戸惑いましたが、結果として私が医師を目指してから研究にものめり込んで来た半生を反省する思い出話に終始することとなりました。その結論は、結局のところ人間は一人では何事も成し遂げられないということかと思います。これまでこうして数多くの優れた師匠、先輩、同僚、後輩に恵まれ、助け合い力を合わせることが出来たことが、私がこうして研究を続けてこられた最大の要因であると思います。その意味で、共に同じ目標に向かって粉骨砕身努力して来た多くの仲間の先生方にこの場を借りて心より御礼を申し上げたいと思います。

 この私のつたない経験談を通じて、一人でも多くの若い研究者の皆様が骨代謝研究の魅力や生命現象の神秘に魅せられ、或いはまた疾病の克服に向けた情熱を高めることに繋がればこの上ありません。

The Chemical Dynamics of Bone Mineral
2007年9月 HawaiiでASBMRが開催された時の東大4内3研同窓会
右より岡崎亮、竹田秀、池田恭治、井上大輔、中山耕之介、私、故原田俊一先生ご夫人・原田秀子の各先生(現アラバマ大学Assistant Professor)、福本誠二先生はカメラマン

The Chemical Dynamics of Bone Mineral
2006年9月NASA-JAXA共同の宇宙飛行士へのビスホスホネート投与試験の打合せでHoustonのJohnson Space Centerを訪問。隣はNASA側主任研究者Adrian LeBlanc

The Chemical Dynamics of Bone Mineral
2015年8月阿波踊り。左よりSerge Ferrari先生、奥様Regula、Maria Tsoumpra、私

The Chemical Dynamics of Bone Mineral
2016年8月阿波踊り。左より加藤茂明先生、私、Roland Baron先生、奥様Florence

The Chemical Dynamics of Bone Mineral
藤井節郎記念医科学センター脂溶性ビタミン研究分野・現分子内分泌学研究分野
後列左より、沢津橋俊、福本誠二、私、高士祐一の各先生
前列左より、事務補助・三浦直子、研究補助・坂井利佳、学術研究員・Maria Tsoumpra、秘書・武市宏実